断腸亭日乗 1 (荷風全集 第21巻)

断腸亭日乗 1 (荷風全集 第21巻) の詳細

永井荷風による『断腸亭日乗』の原本（荷風の養子、故・永井永光氏所蔵）から翻刻、収録されたもので、大正6年（荷風39歳）から大正15年（荷風48歳）までの日誌が収録されています。これは、大久保の断腸亭から築地の陋巷を経て、麻布の偏奇館に落ち着くまでの時期にあたります。先考から遺された遺産の助けもあり、荷風は世情の姦しい近代の東京の其処彼処を、日々飄々と訪ね歩きます。妓家を、料亭を、酒肆を、劇場を、あるいは当て所なく。喧噪のなか無風帯にあるような荷風の目から見た、変遷の留まらない近代の東京を、世俗的あるいは地誌学的興味から探るのは、本書を読む愉しみの一つではあるでしょう。しかし、荷風の目に映る東京の鮮明な光景は、そのなかの朧で昏い心象風景へと滲み暈けてしまいます。軽妙洒脱を装って妄りに華やかな風俗を語っても、その昏みを留めることはできません。荷風の歩みは興味や世情への憤怒に駆られてというよりも、むしろ失せない孤独と尽きない憧憬に追われてのものだったかもしれません。荷風が江戸や支那、フランスの文化に傾倒、耽溺していたのは周知のことで、それは近代日本の模倣文化や人心の躁競に対する嫌悪に由るものでした。しかし、彼の羨望した文化は彼の憧憬と相似であるに留まり、決して合同ではなかったのです。何故にとも、何をとも知れない憧憬に駆られる者にあっては、その孤独の癒えることは決してないのでしょう。救いのない、生存の孤独。文学の故郷をそこに見たのは、坂口安吾でした。しかし、安吾はこうも述べています。大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではない。救いのない孤独を胸中に東京を彷徨い続ける荷風は、「ふるさと」へ発つことができるのでしょうか。あるいは、それを望んでいるのでしょうか。それはこれ以降の日乗で漏らされ、10年ほどの後に、『'墨東綺譚』そして「放水路」として蒸着されることになるのでしょう。